頭が悪い

以下、2020年の私

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最近自分の頭が悪くて流石に困ってきた

 

いろいろを理解できないのはすごい悲しい。

で?それは主観なんだろ?と、論破されるのが本当に悲しいから、もっと確実で確かな知性をつけたい

 

自分から発される言葉が全部ニュアンスなのも残念。

いつも、学術的なこと言われて感情論で返すみたいなことを平気でしてしまいます。

 

絶対に間違ったことを言っている人と戦いたいんだけど、論破させるだけの知識も理解力も足りてなくて、武器なし丸腰って感じだけどやっぱり私は戦いたいんだよ

 

 

キッチン

温かいようで冷たいようで、温度という概念を越えたところにある話だった。わたしは本を読む時かなり光景が浮かんでくるけど、セピア色で温度がない世界を文字越しに見ている感覚だった。(それが心地よくはある)


絶望があるから幸せを感じるんだ、とかは本当にそんなの当たり前になってる言葉だけどそんな体験私も今までの人生に何度も何度もしてきたけど人それぞれ程度は違えどそういうのをやってるからなんとなく次があると思って月見て眠るんだな寝たら忘れてご飯食べたりするんだな

 

おこがましくも、我が人生に対して、導かれてんなこれと私も思うのよすごくよく思う

人に薦められてこの本を読めたのがかなり素敵だったな。見事に導かれてんな


感想とかこんなこと言葉にすること自体が無粋なんだよってこの本が教えてくれたと思うのに今は言葉にして残しちゃおうかなと思った。そういえば「沈黙は何よりも激しく愛を語る」って歌ってたバンドが好きだったな。まさにそれだったからすごくよかった。

 

ポリシー

これを言ったら多分私の全ての行動に納得がいっていただけると思うんだけど、私が人生で大切にしている前提の一つに、「みんなそれぞれ事情を抱えて生きている」というものがあります。

だから私は人が隠していることを本当に知りたくないし、あなたの弱みも秘密も涙も恥ずかしいこともキュンしたことも人間的な本質も、ほんとにわざわざ見せなくていいよ

日常生活の中でも、「あ、そういうことならまじでもう首突っ込まないんでお願いなので何も匂わせることなく私がいないところでやってください、いや私が去った方がいいですか?はーい、、、(フェードアウト)」ということをよくしています。(頭の中の話)

夏の終わり

 

3ヶ月後には卒論ちゃんと書けてると思うと今のうちから褒めてあげたいし自分を甘やかしたい、どうもわたしです、

 

 

 

4年目の夏さいごの日、

どこかセンチな気分で電車を待っていた。

携帯の充電も切れていて、向かいの電車が通る時の肌寒さとか、秋の虫の音とか、電光ニュースとか、いろんなものが私に入ってきた。

ちょっと顔を上げると、セミが元気に飛んでいた。最後のセミかしらなんて思いながら、いや近づいてくるなくるなと願った。

まもなく電車が来る。

私の前を1両目が通る瞬間、カラッとした音がして、セミが私の足元に転がった。飛んでいたセミが、車両にぶつかったのだ。私は咄嗟にベンチを立って距離を取る。セミが仰向けになってからの動きの怖さを知っているからだ。足をバタバタさせるセミを横目に、とにかくいつでも逃げられる状態を意識した。しかし、程なくしてセミは動かなくなった。電車が止まり、私は静かに車両に乗り込んだ。仰向けになったセミは風に揺れただけだった。

私はとんでもない夏の終わりを見てしまった。

 

 

 

 

無題

 

コロナ禍の自分の生活、まじでこれまでの人生じゃん

 

他の人がやってることを見て、いいなぁと言うばかりで結局何もできない感じ。

 

いいなぁと言ったら、じゃあお前もやればいいじゃん!!ときっとなるんだろうけど、私は出来ないんですそうやって生きてきたんですね、、

羨ましがることを生業としている気までしてきた。私の生活の軸は、他人を羨むことです

 

 

 

今日

仕事ができなくて悔しかった

もたもたもたもたしてしまい、みんなを待たせてる感じがあって、それまで暇だったのに急激にみんなをバタバタさせている感じがあって苦しかった。

仕事できなくて恥ずかしいな、とはじめて思った

 

やるべきことを忘れる、いつやろうかな〜というふわふわの中でやってるから。

 

最後、上司が新人さんたちになんとなく声を荒げていたけど(手空いてる人これこれやって〜!!みたいな程度)私がじわじわ怒らせたのだなぁと思ってすごく悲しくなってしまった。

 

やるべき仕事忘れててすみませんの気持ちと要領悪くてすみませんの気持ちと、もっとがんばりますの気持ちをすごく伝えたかったし、普通にシュンとなってど反省してしまった。

でも自分にキレているような態度を取ってしまった。明日は絶対ちゃんとしますね?!て誰に対してでもない確認を表明して帰った。

 

昼間に、大変可愛がっている後輩の男の子がミスって叱られて泣きそうになってしまっていて私はすごくいたたまれない気持ちになった。

怒り方怖いで有名な人に嫌な言い方をされていたけど、たぶん彼は言い方の問題とかではなくミスしたという事実にどうせ泣くんだろうなと思って、彼といつかの自分をヨシヨシしたいような変な気分になった。心の中で両者とも抱きしめた。

 

そんな私だって今日の帰り際自分の仕事の出来なさに泣きそうになりながら帰ってるよ。こういった人種は、きっと未来でもいちいちメソメソしたりニコニコしたりすると思う。本気なんだもん。私へ、社会人になっても仕事のことで泣いていいぞ。

 

 

 

 

メメントモリ

 

このままじゃ私は死ぬと思う

てか人はみな死ぬの。

 

 

私の死生観ってものはとても不思議で、どういうわけだかなんの後悔も割となく、いつでも死ぬ準備ができているタイプである。

 

今夜地震が起きますと言われたら、あらそうなのねと思うし、あの交差点でトラックとか突っ込んできたとしてもそうゆうこともあるよね、ってことを常に思いながら生きている。

メメントモリ」って言葉があるけど、この感覚が私にはけっこう身近な感じすらある。

 

何故死ぬことに対してこんなにイメージの準備ができてるんだろう。

たぶんその理由は、なんでもかんでもしっかりやってる自信があったからだ。

毎日の生活の中で、

出会った人を大切にしたい、困った人を助けたい、ちょっとサゲな人がいたら元気になってほしい、やるべきことをちゃんとやりたい、組織の中でいちばんに動きたい、どうせならいい人って思われたいけどまあそれは別に私は利益を得なくてもいいや、

本当に毎日そんなことを考えてる。いや考えていた。

 

でもそれができなくなった今、なんか抜け殻のようである。バイトの時とか、他人といるときは大丈夫。いつものように元気でサービス精神旺盛で結構好きな私

 

でもこのまま人に会う時間が少ないままで、家でダラダラしてる自分と一緒に生きないといけないとしたら、そんなの死んだも同然だなぁと少し心配している。

 

いつ死んだとしても「まあ運命了解」と思うくらいやり切っていた理想の自分の毎日と、今の現状とのギャップにやられている

 

こういう人けっこういないのかな〜

私より過激なこの思考の人、危険だと思うんだよね